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幻想と現実と真実の狭間。@東京芸術劇場 『蜘蛛女のキス』 感想。

もう書く気なかったのに。 考え出したら止まんない。
……これだから奥の深い作品はイヤなんだよ!! まったくもー。
(とか言いつつ思考の迷宮に嵌るのは快感です)(もはや中毒)


そんな訳で、オンリーワン観劇の若輩者が勝手に解釈第2弾。
ネタバレ有り。 …純粋に感動された方は読まない方がいいかも(爆)




結局のところ、蜘蛛女っていったい何なのでしょうか?

……と、作品の核であろうところから攻めてみました。 どんだけ生意気なのか。




モリーナ@石井さんが、憧れの映画女優・オーロラ@朝海さんの演じた役の中で
唯一好きになれない、むしろ恐れてさえいるように見えるほど苦手なキャラクタ。
それが蜘蛛女。 キスを交わした相手を死に至らしめる、無慈悲で不気味な存在。
作品中では映画から抜け出て、と言うよりも、本来いるべき映画の世界から離れて
モリーナ(や、ヴァレンティン)の周囲に幾度か現われては、彼を恐れさせる。

自分が近づくと恐がるモリーナに蜘蛛女は 「いつか私とキスをする」 と告げる。
その 「いつか」 はラストシーンで、2人が顔を近づけていき幕が下りる訳ですが。


“死” を象徴するような蜘蛛女の、その影響力の範囲は一体どこまでなのか。

自由な意思を持って物語世界の中を動き回る、 “死” を具現化した存在なのか。
それとも、モリーナの想像の中だけに生きている、彼の鏡映しのような存在なのか。

どちらであるかによって、蜘蛛女の存在意義は全く変わってくると思うのですが。
勿論、この2つのどちらでもない、全然違う解釈も大有りだと思いますけども
私にはこのくらいしか思いつかなかったので、どちらかの線で考えていくとして。



上に書きました2つは、例を出すなら東宝版トートとヅカ版トートのような違いです。
東宝版 『エリザベート』 はシシィが主人公なので、トートはあくまで “死” の象徴。
“死” の自由に魅入られているシシィの、秘めた自殺願望のような形で現われる。
ヅカ版 『エリザベート』 はトートが主人公なので、彼は1人の男性として意思を持つ。
黄泉の帝王は自分の意思でシシィに恋をして、彼女を欲し、手に入れるため自由に動く。
(※以上は私の個人的感覚による勝手な解釈ですので、あまり信じすぎないように)

蜘蛛女も、偶然かトートと極似た性質を持っていますが(キスを与えた相手が死ぬ)
トートで言うところの東宝版とヅカ版と、どっちなんだろうなぁと思いまして。
結論から先に言ってしまうと、私は東宝版トートに近いのかな、と考えております。
自分の意思で動いているのではなく、あくまでモリーナの心を反映して現われる存在。


……で。 私は日本初演版を観ていないので、これは思いっきり想像なんですけど

日本初演版の蜘蛛女は、ヅカ版トートだったんじゃないだろうか。

舞台上にいる登場人物たちの運命を操っているような、 “影の主役” 的な存在。
診療所でモリーナの前に姿を現したのも、彼の抱く死への恐怖を反映しているのでなく
彼に忍び寄る死の匂いを嗅ぎ取ったから自分の意思で現われた。 そんな感じで。

私が何故こう考えたのかと言うと、日本初演版を観た方の感想を拝読した直感(爆)
でも、日本初演版の感想を探すとよく目にとまるのは “蜘蛛女の存在感” 。
圧倒的とか凄かったとか言われまくってるくらいだから、余程だったんだと思うけど
あくまで主観だが。 朝海さんの蜘蛛女は、そこまで濃くはなかったぞ?
存在感が無かった訳ではない。 けれど、影の主役なんだとは、私は思わなかった。
重要な役ではあったし、朝海さんの人間離れした雰囲気はピタリと嵌って好演だった。
しかしそれ以前の話として、登場人物たちの運命を操るほど強い力には見えなかった。


モリーナ@石井さんがヴァレンティン@浦井くんに、自分と映画との出逢いを語る時
その後ろで、子供時代のモリーナの再現を演じているのは朝海さんなんですよ。
映画館のイスに座り、スクリーンを一心に見つめながら子供のように脚をプラプラと。
綺麗な横顔に無垢な表情が宿って本当に愛らしい朝海さんに目を奪われつつ(笑)
こういう演出があるってことは、蜘蛛女はモリーナと切っても切れない存在なんだな…
……と私は考えていた訳です。 2人は一心同体。 裏表。 ある意味、同一人物。

日本初演版の時、この場面がどのように作られていたのかは、私は知りませんが。
少なくとも、この場面で蜘蛛女(を演じる役者)が幼少のモリーナを再現した場合
蜘蛛女はモリーナの精神世界のみに生きる存在であり、自由意志は殆ど持たない。
ということになってしまうと思います。 つまり、東宝版トートのような立ち位置。
そして、この場合、蜘蛛女は他の登場人物たちの運命を操ったらオカシイと思います。
何故ならモリーナの想像世界のみに生きる存在が、そこまでの力は持たない筈だから。
(但し、モリーナが蜘蛛女の力をそこまで強大なのだと錯覚している可能性は有る)


そもそもが。 蜘蛛女がオーロラと同じ姿をしている、という点からしても。
蜘蛛女というのは、元々はオーロラという女優が演じた役のひとつに過ぎないので
それがオーロラの姿で出てきている時点で、モリーナの想像の産物になるのでは。
ヅカ版トートのように自分の意思でキスをし、相手に死を与えたらいかんやろ(笑)
ましてや人の運命を操る力なんか無いんじゃないかな。 そう見えることはあっても。

念のため。 日本初演版のこの作品を、否定している訳ではないですよ。 断じて。
当時の演出にしたって観てもいない人間が勝手に想像して言ってるだけですから
もしかしたら、日本初演版の蜘蛛女だって、想像世界の存在だったのかもしれないし
その上でものすごい存在感を出していたのだとしても、それを間違いだとは思わない。



ただ。 私は初めて、日本初演版じゃない、今回の 『蜘蛛女のキス』 を観て
予習段階では勝手に死の象徴として舞台に君臨しているんだと思っていた蜘蛛女が
モリーナの想像世界のみに生きる存在にしか見えなかったから、少し予想外で。


そして、そんな風に観ていったら気になる点が多々見つかってしまったのですよ。
たとえばアムネスティの人間まで蜘蛛女役に演じさせるのは一体何故なのか、とか。
だって、蜘蛛女をモリーナの想像の産物に過ぎない、と考えてみるならば
アムネスティの人間だって実在しているのかどーか大分怪しいじゃないですか(爆)
けれど、モリーナの想像の産物である蜘蛛女が舞台上を闊歩している世界なら
視点はモリーナにあるということになるので、そういう考え方も出来るかな、なんて。

つまり、舞台上にある物・いる者が総てモリーナの目に映っているものであるなら
どれが実物でどれが想像の産物か、疑ってかかることが出来てしまうと思うんです。
……たぶん私がラストで泣けなかった原因のひとつ、確実にコレだと思う(嘆息)
どこまでは現実でどこからが虚構か、私はよく解っていない状態で観劇していたから
そこにあの抽象的なラストシーンが来て、正直、どこまで信じていいか解らなかった。



ラストシーンの話をさせて頂くと。 ……ラストと言っても、モリーナが死ぬ場面ね。
実は私、2人(モリーナとヴァレンティン)は既に死んでいると思って観てました。
言葉を交わしてはいるんだけど。 2人共がもう、別々の場所で殺されているの。
だからあの会話は死の間際に見たモリーナの幻想(物語の視点はモリーナですから)
或いは、あの場面だけ視点が切り替わっていて、瀕死のヴァレンティンが見た幻か。
どっちなのかはよく解らないけど、でも、どっちかなんじゃないかなぁと思ってました。

モリーナが捕らえられる場面。 マルタに電話している最中に殴られるんだけども
「その脳みそをぶちまけたいか!」 みたいな台詞が入り、続いて銃声が入るんです。
舞台は移って、一方のヴァレンティンも、刑務所内で拷問されて死にそうな状態。
そこへ 「お前の知り合いを連れてきた」 とモリーナが現われて、2人は会話する。
俺は何をしたんだ、と言うヴァレンティンに、何もしてないわ、と答えるモリーナ。
俺のためじゃないよな、と言うヴァレンティンに、したかったから、と答えるモリーナ。
最後にモリーナが愛してるわ、と言うと、 「その脳みそをぶちまけたいか!」 の声。
そして、デジャヴのように銃声が続く。 崩れるモリーナ。 彼を呼ぶヴァレンティン。
それからもう一発、銃声(のような音)が響き、ヴァレンティンも崩れ落ちる。 暗転。

……だいたいこんな感じの流れだった気がするんですけど(うろ覚えです申し訳無い)
だから、銃声は合計でたぶん3発分?(自信薄)聞こえたんじゃないかと思いますが
1発目の銃声、電話ボックスで捕まった時に、モリーナはその場で銃殺されたのかなと
私にはそんな風にも見えてしまったんですよ。 だから、再会する2人は幻想なの。
視点がどちらかは解らないけど、…もしかしたら後に死ぬヴァレンティンかもしれない。
利用してしまったモリーナに対して、罪悪感や憐れみを抱いていたのかもしれない。


正直言ってしまうと私には、ヴァレンティンの苦しみは解り辛かったのですが(爆)
ひたすらに恐いと思ってしまった。 好きでもないモリーナを抱きしめるのも
(彼のことを嫌いではなかったと思いますが、同性愛への嫌悪感は有るように見えた)
モリーナが出所する時に形見のように手渡してくれたストールを、投げ捨てるのにも。
「お前は男なんだからなッッ!!」 も恐かったなあ…面と向かって言った訳じゃないけど
それでも、自分が女の人だったら、と歌っていたモリーナを全否定したように思えて。
(や、ヴァレンティンはあの歌聞いてませんけどね、寝てたから)(あくまで私の印象で)

でも昨晩ブログ巡りをして、今回の舞台を観劇された方の感想を幾つか拝読しましたら
どうやらラストシーン、の最後の最後、モリーナと蜘蛛女が顔を寄せていくところで
後ろにいるヴァレンティンがモリーナからもらったストールを抱きしめるそうですね!!
私、まんまとモリーナ&蜘蛛女にロックオンしていてサッパリ気づきませんでした…。
そして、コレ知ったらヴァレンティンの印象が少し変わった。 畜生もう1回観たいよう。




シッカリ泣く気で観ていた場面で、うっかり泣けなかった私だったんですけども
考えれば考えるほど深みに嵌る作品で。 久々に頭痛を感じた、有意義な観劇でした♪
これから観られる方は、私のよーに現実だの幻想だの考えない方が良いと思う(笑)

最初から最後まで 真実の物語 だと思った方が、絶対泣けると思いますから!!




私はと言うと、余計なこと考えながら観たせいで要らんダメージばかり食らいました(爆)
人間、 “自分の世界” というものを完全に完璧に確立させようと思ったら
徹底的に他者を排斥しなきゃいけないんだなあ、とか……アイタタタ(戻ってこい俺)


けれど。 モリーナの言っていたとおり確かに、映画の世界だけが美しいけれど。
美しいものばかりで彩られた世界では、美しさなんて何の価値もなくなってしまうよ。
人間の想いも、人間の住む現実も、醜さで溢れてるからこそ微かな美しさが輝く。
そんなもんじゃないかな、と私は思うんだけどね。 ……まぁ、あくまで個人的意見。

モリーナが最後に言っていた “現実の美しさ” が何なのか、私はまだ解ってない。

それでもモリーナを現実世界へと引っ張り出したのは、ヴァレンティンなんだろうなあ。
打算と裏切りと欲望ばかりの現実。 だからこそ “愛” をいとおしく思える気がする。
だからこそ人はそれを求めてしまう気がする。 それがどんなに痛くて、苦しいものでも。




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【2007/11/12 16:16】 | ヅカ以外の観劇日記。 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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